いまそろの今

今更で候。インプットしてアウトプットしてわかった気になる。

続・ロリコンの目に映るもの

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扉のむこうにはきっと楽園がある
しかし・・・

伝説によると
唐の詩人・李白の最後は
酒に酔いしれて
水面に映る月を詩情の赴くまま
捉えんとして溺死したとされている



「自分の世界」に住まうにも掟と代償がある

 

感じない男 (ちくま新書) 森岡正博 
の感想がてら思いつくままに書いています。
そのつづき。


前回
ロリコンの原理を
報われない男の欲望
かよわい女=少女
という図式から表してみた。

その原理は一言で言えば「易きに流れる」である。

つまり、捌け口を求めさまよう①の怨念は
「たやすくふみにじることが出来るであろう」
②に引き寄せられる。

これが、ロリコンの土台たる現象である
とした。



今回はこの①と②の基本の関係を後押しするパーツとしての要素について述べたい。上げだしたらキリがないので自分の気にかかっている要素の二つだけご紹介したい。

まずは要素③として
「かわいい 」という無菌的な美
うわべの美しさの追求と誇張である。
都合の良いことは讃美し
都合の悪いことはもとより存在しないことにする。
夢みたいな美。嘘みたいな美。

本来貴族的であったその手の美意識は
「物」の豊かな国ではもはや特別でもなんでもない。
現代日本にあっては「貧しく小汚い子供」の方が特別であって
" 一般 " 家庭の子供は令息・令嬢となった。

街に限らず今では至る所にめかし込んだ令嬢の姿をみる
目に映さないほうが苦労するくらいに。
世の中が「夢みたいな美」で溢れた。

それが「妄想」に拍車をかける。
つまり、人形のごとく手入れの行き届いた少女は
作り物めいて「生物」であることを思わせない。
「妄想」をくすぐり、かき立て、のせるには恰好と言える


最後に「タブー」
「感じない男」でも
制服のフェティシズムに関しての追求がなされていたが
閉じられ、隠され、禁じることで
皮肉にもより強くより積極的に意識して
かえってその傾向を強めてしまうというこの要素は見逃せない。
いわゆる「カリギュラ効果」と呼ばれるものである。

カリギュラ効果wikipedia
1980年のアメリカ・イタリア合作映画『カリギュラ』が語源で、過激な内容のため、ボストンなどの一部地域で公開禁止になったことで、かえって世間の話題を惹いたことにちなむ

遠ざかるほど
隠すほど
禁じられるほどに覗きこみたくなる。
能動的になる。
届かない。届かないからこそどうしても手にしたい。
憧れていた何かがそこにあるかもしれない
ほら、まるで夢のように美しいではないか。
きっと何かある。



李白
あまりにも美しい水面の月が欲しくなって手を伸ばした

実際の「月」は空気もなく強烈な宇宙線に包まれた
気温差250℃の地獄である。


「そんなに月が好きなの?よし連れてってやろう」
と親切にも月面に連れて行ったとしても
李白は喜ぶまい。

宇宙服に身を包んだ李白が月に降り立ったところで
思うことは決まっている

「これじゃない…」


欲しいのはあくまで水面に映る月である。

遠く手の届かないから美しい。
近づけば実は面倒ばかりで
それが妄想でないリアルの短所であり長所であるのだが

妄想は近づけば消える蜃気楼であり水に浮かぶ月である
手を伸ばせば冷たい水面が待っている。
その意外な感触。
妄想のその先それはシナリオには無かったところだ。


シナリオでは

水面の月に手をかける
無常の喜びに包まれる
天へと昇る
END


となるはずが、いざ手をかける。
・・・・・すると何か違う。
思っていたのと違う。これじゃない。
なんかこう・・・もっと
今までと比較にならない快楽が訪れるのではなかったのか?
とうとう手に入れた。
しかしこれは・・・・・・

ENDは訪れない。まだつづく。
シナリオは別にある。

手を伸ばして水に落ちた。
落ちた以上、冷たい水で喘ぎ。
呼吸できない苦しみに藻掻かなければいけない。
なかなか終わらない。いつまでたっても終わらない。
いいかげんにしてくれ


こんな映画があったとしたら
結末はこうです。

ここからは延々溺れもがく映像が
ロマンチックな音楽も一切なく続くのです。
「早く終わらせてくれ」
演者も観客も同じ気持ちです。
しかし終わらない。
業を煮やした者が1人去り二人去り
とうとう最期の観客が去り
劇場に誰1人観る者がいなくなった
そのとき
やっとこの物語に幕が降りるのです。